アートとエンターテイメント

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♡ファンタジック♡(ファンタスティックと同義)

①非常にすばらしいさま。感動的。

②幻想的で、夢を見ているようなさま。

 

 

アーティストSL3004/杢3004もとい

杢 幸世(モクサチヨ)がお届けする

私の頭の中のファンタジックを放出するblogです◎

音楽で紡ぐファンタジック。

アートや友人アーティストが表現するファンタジック。

心や意識から紐解き

現実をファンタジックにしてきた私の記録などなど◎

あなたの本来持っているファンタジックに化学反応したら嬉しいです♡

日々に「#飽きたら3004」♡💃

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※この記事は2017/10月投稿の再up記事です。

 

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この記事を書こうと思って

何度下書きを消したかわからない。

この記事を書こうと思って

何度思考を巡らせたかわからない。

だけどなんかもう諦めた笑。

「完成させる」ことを諦めた笑。

もうこれは私の中では仮説レベルであっても一度アウトプットしておくべきだと思った。

 

 

どうも杢です。

一気に寒いですね、皆さんいかがお過ごしですか?


「アートとエンターテインメント」

これらのワードは一見、作品を作る/表現行為をしている、いわゆるアーティストやエンターテイナーみたいな人種に特化した話だと思ってたけど私の中では最早そうではなくて、人間として根本的な、これまた「自身の在り方と他者との繋がり方」と同じベクトルなんだと思えてきています。

 

 

アート。

私の言葉で紡ぐならそれは在り方/生き方。

個人レベルで為される行為。

内への力。陰の力。

 

 

エンターテインメント。

私の言葉で紡ぐならそれはアートの先にある他者への感動作用という結果論。

自身が立ち/それを最大限輝かせた時に、他者や外界に影響する結果。

外への力。陽の力。

 

 

アートとエンターテインメントは一見別々のものだと思ってた。

作品を一人よがり/ただの自慰でとどまらせないためにも【アートとエンターテインメントの配合率でバランスをとる】が作品作りや表現行為には必要なんだろうなと思ってたのね。

 

 

私的には「優しさは人間の基本オプション」なので「自分が作った何かが誰かの笑顔や幸せに繋がったらいいな」と考えることはとってもナチュラルな衝動/感情。

ただその衝動/感情があまりにナチュラル過ぎるが故に時々私達の首を絞める。

【私を表現したいのにわかりやすく、伝わりやすくしていったら私じゃなくなった】

みたいなジレンマはアーティストだけでなくあらゆる人が生きてく上で一度は感じるものじゃないかな。

 

 

私自身アートとエンターテインメントはその最大公約数もしくは最小公倍数を探すところにこそ自分の納得と他者への説得力が得られるポイントなんだろうと思ってたけど今は違うんだ。

 

 

 

エンターテインメントはアートの【結果論】でしかないんじゃないかと思い始めたの....!

 

 

 

エンターテインメント。誰かを喜ばせる。

それはもう演者が/作者が/発信者が

【あらゆる海】に潜って

潜って潜って潜って潜って

信じられないところまで潜って

それでやっと見つけた小さな宝物のかけらを持って

水面に顔を出した時に初めて起こる歓声。

【潜って見つけて見せてあげた時の結果論】

のことなんだと思う。

 

 

自分には到達出来ない程深く海に潜った誰かを見て人は声を上げる。

「ええ!お前どこまで潜ったんだよ!すげえな!その石見たことねえや!すげえな!」

それがエンターテインメントじゃないかな。

 

 

自分には出来ない程深く【自分という海】に潜った誰かを見て人は声をあげる。

「ええ!お前どこまで潜ったんだよ!すげえな!その【お前自身】【お前の持つ力】【人間の持つ力】【美学】見たことねえや!すげえな!」

その感動の声という結果論がエンターテインメント。

 

 

世界には【こういう感じでやれば人が喜ぶ、基準ラインみたいなもの】が先人達のデータにより存在してるから中にはそれを模倣するだけで時に同じく人は喜ぶかもしれないけど、そういう上っ面だけの出来合いは一定レベルでしか成り立てはしないと思ってる。

だって似たり寄ったりなの、飽きるじゃん。

 

 

だから少なくとも私にとっては、結局何が感動になるかってゆーともう【その人である】という絶対的に世界にオンリーワンな自分自身な色でしかないわけで。

 

 

ミスチルが好き!って言うシンガーの歌なんて私は興味ないし「じゃあミスチル聞くわ」になるもん。私が聞きたいのは「ミスチルに感動して助けられてあんな風になりたいなって歌ってる【俺】」であって。

ミスチルを通して歌という武器を手にお前は何を歌うの?お前はミスチルを通して何をどう捉えどう紡ぐの?って思うわけです。

私は、あなたの、歌が、聞きたいの。

 

 

ギターもピアノも声も筆もカメラも建築も言葉も思想も商品もブログもただのツール/ただの武器。

それで何をするかっていうのは/何を為すかっていうのは結局最後は「私という表現」でありその先に欲しいのは笑顔かあったかさか金か名誉か様々でもそれぞれに求める「豊かさ」なんだろうから。

 

 

ちなみにこの精神的な旅の発端になったのは9/24の復活ライブ翌日に出会った大納言はぴこというバーレスクダンサーさん。

彼女がダンサー/エンターテイナーとして素敵なのは何より根本にしっかりアーティストだったからで、だから今回の持論に到達したの。

【エンターテイメントはアートの上に成り立つもの】

【人が最終喜ぶ/感動するものは己であるということの潔い透明さと力強さ。芯。】


彼女がどんな海に潜ったのか

【自分という海】なのか

バーレスクという海】なのか

【ダンスという海】なのか

【表現という海】なのか知る由もないけれど

【神は細部に宿る】から滲み出る。

 

 

潜ったか/乗り越えたか/見つめたか/探したか
それが完了していても現在進行形でも
その潜ったか/乗り越えたか/見つめたか/探したかはその人に自然と纏われる。

それは薄っぺらい表面的なものでなく闇や影や葛藤さえも光に変えた天女の羽衣のような虹色の衣で、それを纏ってる人はその輝きが細部に宿るの。

ちなみに「エンターテインメントが振り切るとアートになるならアートが振り切るとエンターテインメントになるはず」という前段階の視点で私がそれに値すると感じたのはEGGORE。

EGGOREというライブアートパフォーマンス集団のエネルギーは「個々である/自分自身でしかない」というアートをしっかりそれぞれに纏ったアーティストの織り成すエンターテインメントでちゃんと彼らはその両方を成立させていて。

アートとエンターテインメント。

他者を喜ばせるためにどの海に潜ろうか。

他者を笑顔にするためにどの海に潜ろうか。

自分を表現するためにどの海に潜ろうか。

自分は何者か探すためにどの海に潜ろうか。

自分という海。

他人はどうしたら喜ぶかな?という海。

自分のツール(音/歌/絵/写真etc)はどう使えるかな?という海。

その他にくっつけられるツールはあるかな?という海。

だけれど全ての海は最後は繋がってる。

それは「私はこれがいい」という

【私という海】なんだと思う。

 

 

その海に怖がらず飛び込み

潜り潜り潜り、潜って潜り続けることがアートの始まりなんだと思う。

あなたがご機嫌なら独り善がりの作品もいい。
あなたがご機嫌なら誰かの目を意識した/でも反対に自分は騙している作品もいい。
全ての指標は「私ごきげん!私楽しい!」であり、そう思えることがスタートで、その次に「誰かに伝えたい」なら「誰かに伝えるには?」の海に潜り探し、その海と自分のごきげんの海が繋がるところまで潜り続けて探し続けるだけかなって、そんな風に今は思ってます。

 

 

アートとエンターテインメント。
私なりの結論は
【エンターテインメントはアートの結果論でしかない。】

まず海に潜ることが「アート」の始まり。

その深度が増すたび

あなたはあなたに戻り

あなたはあなたを見つけ

あなたそのものを知り

あなたそのものになり

それは世界の捉え方になり

そしてそれは誰にも真似できない唯一のアートになる。

 

 

その点において私にとってはアートとは作品作りをする人種だけでなく全ての人にあてはまる言葉でそれは「生き方」だということ。

あなたがあなたで在る。

あなたがあなたでしかない。

他の人より深いところにまで潜れて自分の海への深度が深まるたび、あなたはあなたになり、その行為やそれにより作れるモノ/思想がアートになる。

 

 

最後まで読んでくださってありがとう。
アートがエンターテインメントになった時
「自分である」が誰かの感動になった時
お金も名声も地位もあたたかさもきっと手に入るんだろうから、まずはやっぱり【自分という海に潜る】ってことかなって思っています

 

 

「おまえは、だれだ。」と
いつだって勇気を持って泳ぎ切りたい◎