アーティストをやめる、言霊遣いをやめる。

杢です。生きてます。事件が起こってダークサイドに堕ちそうな自分をただ見てました。何をするわけでもなくただ見ていて、まあものの3日でなんとか這い上がれたと思ったのも束の間。さすがは私のダークサイド。そんな弱っちくなかった。「うふふ、這い上がれたと思った?」と言わんばかりに死に物狂いで這い上がった崖もろとも崩してきやがった。敵ながらあっぱれだと思いながら、いやさすが私のダークサイドあっぱれ、それはつまり「私あっぱれやな」と思いながら奈落の底から「飛べぬなら  掘りさげてやる 底の底」と575をうたいながら奈落の底をさらに掘り下げています。

 

 

闇を見つめ続けさらに掘り下げ、拡大させれば同じだけの光があると知っているからね。

 

 

辛い!痛い!な一見マイナスな感情さえ「この地球の醍醐味!イェイ!」と第三者目線で「さちよ」の行く末を楽しめる境地はもう、ドタバタ問題が起こりまくる、でもきっと最後は綺麗にハッピーエンドでまとまる月9かなんかを見ている気分。

 

 

来るなら来いや!どーせハッピーエンドなんやろ!痛いのはさすがにやっぱり痛いがな!とファッキン中指を立てるさちよにダークサイドさちよはますます嬉しそうにほくそ笑む。「さすがさちよ。お手並み拝見。さあ堕ちなさいよ、そしてどこまでも登りなさいよ。」とね。私は月9をやってます。そんな最近。

 

 

ただこの大事件の中で自分が見つけたことは段々ちゃーんと宝物になりつつある。固執だったり握りしめであったり、そして変化と進化/もう一度深い意味での「ジャッジをしない」の概念。

 

 

そもそも時系列的に話すと大事件は「私の聖域を侵された」ことでした。それは「言葉」。自分が何より大事に扱ってきて「他人よりも見つめている」という自負があったもの。それをいとも簡単に粉々にされて。理由は相手の誤解/自分の未熟さ、探せば色々にあれど究極「問題はいつも自分の中にしかない」から「なんや、今度はどこが燻ってるんや」と見ていたら見つけたのは「言葉を大事にしているという自負」だという罠。

 

 

ああそうか。

私は「言葉を大事にしている」にいつしか囚われていたのだなと。

抱きしめることと囚われていること/固執していることはとても似ている。私の言葉で言うのなら「抱きしめ過ぎたら固執になる」てニュアンス。固執は抱きしめるのオーバーしちゃった場合。バランスが少し「抱きしめ過ぎ」になってくると固執の色が滲んでくる。ああ、それかと。

 

 

私は最近直感というやつがビンビンに冴えてあらゆる外界の情報に惑わされることがなくなった。しかもそれは言葉や音に特に影響として現象化するようだとわかってきて「音霊/言霊の巫女」と形容されたりすることは自分でも「うん、確かにその形容はとてもしっくりくる」と嬉しく思ったものの、いつしかそれを抱きしめ過ぎていたのだと気付いたわけで。

 

 

要は

私は言霊遣いである。

私は言葉を大事にしている。

を抱きしめ過ぎていたが故に「言葉」は自分を苦しめることになりかねないほど聖域になっていたわけだ。

 

 

聖域。

もちろんそれらはあっても構わないけれど、それが自分の首を絞め始めた時きっとそれは本来の輝きを失う。

大事なものは大事で構わないが大事なもののせいで自分の首が締まるという現実が起こったならそれはサインなわけだ。「はーい、抱きしめ過ぎですよー1回もっかい見てみてねー」といったような。

 

 

そんなわけで私は「聖域を侵されレイプにも似た屈辱感を味わい、ダークサイドに堕ちた」という現実とそれに伴う「感情」を見つめながら「大事にしていたものが自分を苦しめていた」ことを知る。ホンマもうバランス超大事やな。

 

 

なので私は言葉を大事にしない、と仮定してみた。

私は言霊遣いではない。とね。

更にあらゆる自分を縛りかねない概念を捨ててみた。

私は言霊遣いではない。

私は音遣いではない。

私はアーティストではない。

そんなふうにしていって残るもの。

さちよさんって何者?と聞かれた時に胸を張って言えることは?

「私?女」

「私?にんげん」

こんなことくらいしか自分にはないのだと知る。

(まあ今となっては女である/人間である、さえ確かじゃないかもしれないなと思ってるけど)

 

 

もう、ケーニヒスクローネのパイはパンなのかパイなのか、パイなのかパンなのか、くらいの曖昧なもので定義しきれない自分に「ああああああああ!!」と今まではなっていたものの、突き詰めれば詰めるほどもうどこまでも「決めれませんし、決まりません。決まってません。気ですか?変わります。ぐらんぐらんに揺らぎます。アイデンティティって何ですか?お好きなように見て形容してくださいませ」でしかないのだ。

 

 

そして最後の最後はこうなる。

「私は何者か」の自問に私が答えられる一番シンプルかつ自分に近いものは

「私は無限です」

ということ。

 

 

全てのものであり何者でもない。

言霊遣いではなく

音霊遣いではなく

アーティストでも

オンナでも

人間でもない。

 「さちよは何か」

その答えは

「さちよは無限です」でありそれは

「何者にもなり得ます」なわけだ。

 

 

と、そんなところまで観察が進んだ頃合いに大好きな加藤由迦さんのブログがシンクロで書かれていて「あー当たってました◎さすがさちよ。ほら見ろよ」とダークサイドさちよにもう一度中指を立てる。

◎多次元の扉を開く。3つの解放が今後10年を左右するby 加藤由迦

http://s.ameblo.jp/kolob/entry-12227657850.html

 

 

そう、全てのアイデンティティを/自己イメージをそうではないとしてみることで「いや、でも」という感情/感覚が「何に固執しているのか」を洗い出してくれる。

言霊遣いならそれの何に

音遣いならそれの何に

アーティストならそれの何に

オンナならそれの何に

自分は自分を重ねたくて/そう在りたいのか。

そしてそれらは自分や時に周りの誰かを傷付けるほどの固執やこだわりになっていないか。

 

 

「ジャッジしない」というコトバの本来の温度は「ん?どっちでもいーんじゃないー?私はこっち選ぶけど」くらいのテンションだと思ってた。

おにぎりもいい、パンもいい。

でも今さちよはおにぎりがいい!

初対面で敬語なしでもいい、敬語ありでもいい。

でもさちよは敬語で接したい!

どっちでもok。

相手が別を選んでもok。

でも私はこっちー◎

相手が何をどうしようが痛くもないし痒くもない、疑問も違和感もない。でも私はこっちがいいなと選ぶこと、それが「ジャッジしない」であると同時に更には

 

 

【自分がいつもは選ばない方さえも選べます】まで来ることがもっと深い温度として「相手をジャッジしてない」になるんだと思う。

「そっちもいいねーでも私はこっち」の上に

「でもそっちがいいならそっちにできるよー」という「反対概念さえ選択出来る」ということこそが「器を拡大する」に繋がるなと感じています。

 

 

だって私は固執していないから。

だって私は何者でもなく何者にもなり得るから。

そして何を選んでもそれは私であるから。

私は全てであり何者でもないから。

本来であれば選ばない選択肢を選んだところできっと痛くもかゆくもないし、少なくとも「自分にとって不都合な現実」は起こらないはずなのだ。

 

 

ただ勘違いしないで欲しいのは

反対概念を許容は出来る。

でも反対概念を選択することまではできない時、そこに痛みを伴い、やろうとも見つめようとも思わない、のなら何もやらなくていいわけだ。

「痛くてもやってみよう」と信号がGoにならない場合は誰の言葉にも惑わされずやらなくたって構わないと私は思う。

 

 

私の言葉で言うなら【変化】はしなくていい。

痛くてやりたくないならやらなくていい。

痛いなら逃げていい。

やらなくていい。

あなたは変わらなくていい。

あなたの本質は変えなくていい。

本質はそのままに、あなたはそのままに

ただ逆をも飲み込めるという器の拡大だ。

本来の意味での器の拡大とは【進化】だ。

進化とは周りの人達の笑顔やそして何より自分の快を追い求めた上に成り立つ「ご機嫌さんでいるためにこれを選べるのもまた良し◎」と柔軟に在れること。

そしてあなたがそれを望んでいるならどんなに痛くても信号はGoサインを出すだろう。

諦めきれない、というかね。

ちょっと辛いけど「逃げるにGo」ではなく「StayにGo」で行きましょうとかね。

 

 

(実際私の信号はいつまでも「Stayで」と言うので私は未だにダークサイドで掘り続けている。でもそれは「決めかねている」であるより「決めない」という意思決定なのだ。)

 

 

全ての判断基準は

痛くても辛くてもしんどくても

要はGoかStopかそんなシンプルな形でそれぞれの私達の中にだけにしか存在していない。

だからこそ誰かの言葉を信じるのではなく、更に言うなら宇宙や神さえ信じるのではなく、自分の信号のみを信じる。

「この人の言葉を信じてみよう」と思った【自分の中の信号】を信じて委ねるんだ。

 

 

(まあ結果としてこの信号を信じることは宇宙と繋がってる結果になるんですけどね。ただでも頭でっかちになってしまったり/地に足の着いてないふわスピになったり/逆に反スピで宇宙や神という言葉にアレルギー反応が出る人もいるだろうから宇宙も神も何も信じなくていいと表現します。信じるものは自分の信号ただ1つ。)

 

 

信号。

「感覚を疑うことさえ視野に入れられる感覚」を私は【信号】と呼ぶ。

それは「自分の感覚さえ疑える上で何かを選ぶ時に働くGo or Stop」

判断基準としての感覚は私達の中に確かにあるがその感覚が120%正確に素敵な現実を作れるとは言えないかもしれない。

だからちょっと今までの自分じゃ選ばないこともやってみよう、かな。

だって今までのやり方じゃ現実不都合だし。

だって今までのやり方じゃどうやらこの壁は乗り越えられそうにないし。

 

 

逆をも選べる。

自分の感覚さえ疑えるのが

自分らしくない選択肢さえ選べるのが

もっとクリアな自分の信号。

 

 

だから自分さえ時には疑って逆をもやってみようという【信号】に目をこらす、耳を澄ます。

 

 

誰かの言葉を「(´・_・`)?」と「でもあの人が言ってるし...」と思いながら「鵜呑みにする/傾倒する/盲信する」のではなく、誰かの言葉を「なんかちょっと今までの自分は選ばないことやし、どーなん?とは思うけど実際現実動いてないならとりあえずやってみてもいいのかな。」という自分の中の信号に委ねるのが本来の自分に近い。

そしてきっとその信号はいわゆる直感/第六感と呼ばれるもので使ってるうちに段々と研ぎ澄まされる。

時に今までの自分とはかけ離れたことを選択しだす。

でも経験談からするとこの【信号】だけはクリアになればなるほどほとんど狂いはない。

そしてきっとこれは私達人間が元々持ってた能力なんだと思う。

 

 

自分を定義しているものを手放し

自分が選べないものを選べるようになる。

それを痛みなく為せるようになった時

そりゃもちろん出来ない人よりは器は大きくなってるよね。

 

 

でもまあだからといってこれらが出来てもできなくても重複するようにあなたが幸せなら何の問題もきっとない。何かをたくさん知っていようが何も知らなかろうが、サイキックだろうがなんだろうが結局のところ「あなたがご機嫌さんならなんでもいい」んだと思う。不都合な現実が起きていないならそれでいいわけだ。幸せならそれでいい。

 

 

私は何者か。

私のアイデンティティとは何か。

に出てくる答えは抱きしめていいものだ。

でも、抱きしめた先に抱きしめ過ぎて固執になると枷になる。

それは自分や周りの人を傷付けることになりかねない。

全ては現実が教えてくれ、

全ては自分の信号が教えてくれる。

 

 

ただここまで書いたくせに、どこまでも何者でもない無であり無限である自分を許容した上で、ダークサイドの底の底から「私が見つけたこんな気持ちを書き留めることが誰かの光にもなればいいなぁ」と

こんな時までできるだけ真摯に言葉を紡ごうとし

こんな時までできるだけ誰かにも伝えようとする

その温度の時点でやっぱり私はどこまでも言霊を大事にしているのだから、一周回ってまた私は「自分は言霊遣いだ」と自覚するんだけどね。

 

 

そしてこの「自覚」はただの結果論だと知る。

私は何者でもないが言葉にはやはり偏る性質がある。

ただの無から始め直した時に辿り着く結果論だ。

私は言霊遣いだ。

私はそう偏る性質があるというだけ。

 

 

一周回って同じ結果になってもそれは螺旋階段のように縦方向に同じ位置でも高さや深さは違う。そして高さや深さが違うということこそが「ヒトとしての深み」になるのかなと思う。

 

 

アイデンティティに縛られないで。

あなたの代名詞に縛られないで。

あなたはあなたとしてどこまでもただ固有名詞としてしか確かでなく、そしてそれでいいという自分への許容こそが、さらに軽やかな明日へと繋がるんだと思ってます。

 

 

長文を読んでくれてありがとう。

私の言葉は未熟で

あなたの受け取り方は未熟だ。

あなたの写真も

あなたの絵も

あなたのアクセサリーも

あなたの香りも未熟だ。

あなたの全ては未熟である。

でもそれは「伸び代が無限である」という意味での「未熟」ということ。

だって僕らは最初からどこまでも無限だから。

 

 

ダークサイドの奈落の底から叫ぶ「まだまだ僕らはやれまっせー!永遠に未熟でっせー!だって最初から無限ー!ヒョエー!」という私の声が誰かの光になりますように。

 

 

あなたは誰?

私は何?

なんだって選べる。

何者にもなれる。

僕らは「永遠に未熟」なつまり「無限の伸び代や可能性をもつ無の存在」なので、ござるね。

おめでとう◎

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最後に。

タイトルに「アーティストやめる。言霊遣いやめる」って書いたけど無に戻ったって/何もないを許容したってやっぱり出てくる「自分が偏っていく方向」はとりあえず今の所はアーティストだし言霊遣いなんだと【今は】ただそんな気がするよ。