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アートとエンターテインメント

この記事を書こうと思って何度下書きを消したかわからない。

この記事を書こうと思って何度思考を巡らせたかわからない。

だけどなんかもう諦めた笑。何をかって「完成させる」ことをね。もうこれは私の中では仮説レベルであっても一度アウトプットしておくべきだと思った。

 

 

どうも杢です◎一気に寒いですね、皆さんいかがお過ごしですか?

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(インスト聞きながら考えて考えてたよー生きてるよー)

さて。

「アートとエンターテインメント」

これらのワードは一見、作品を作る/表現行為をしている、いわゆるアーティストやエンターテイナーみたいな人種に特化した話だと思ってたけど私の中では最早そうではなくて、人間として根本的な、これまた「自身の在り方と他者との繋がり方」と同じベクトルなんだと思えてきています。なんだか壮大になっちゃった◎

 

 

アート。

私の言葉で紡ぐならそれは在り方/生き方。

個人レベルで為される行為。

内への力。陰の力。

 

 

エンターテインメント。

私の言葉で紡ぐならそれはアートの先にある他者への感動作用という結果論。

自身が立ち/それを最大限輝かせた時に、他者や外界に影響する結果。

外への力。陽の力。

 

 

アートとエンターテインメントは一見別々のものだと思ってた。作品を一人よがり/ただの自慰でとどまらせないためにも【アートとエンターテインメントの配合率でバランスをとる】が作品作りや表現行為には必要なんだろうなと思ってたのね。

 

 

作品を自慰でとどまらせて構わないタイプの人はそれでいいんだと思うけど【脳内お花畑】なさちぴょん脳味噌が言うには「優しさは人間の基本オプション!」とのことなので「自分が作った何かが誰かの笑顔や幸せに繋がったらいいな」と考えることはとってもナチュラルな衝動/感情。だからこそ私達は【優しき獣】と呼ばれるのかなとさえ思うしね。

 

 

ただその衝動/感情があまりにナチュラル過ぎるが故に時々私達の首を絞める。

【私を表現したいのにわかりやすく、伝わりやすくしていったら私じゃなくなった】

みたいなジレンマはアーティストだけでなくあらゆる人が生きてく上で一度は感じるものだと思う。

 

 

私自身アートとエンターテインメントはその最大公約数もしくは最小公倍数を探すところにこそ自分の納得と他者への説得力が得られるポイントなんだろうと思ってたけど多分違う。今の私的には違う。

 

 

エンターテインメントはアートの【結果論】でしかないんだと思い始めたの。

 

 

エンターテインメント。誰かを喜ばせる。それはもう演者が/作者が/発信者が【あらゆる海】に潜って、潜って潜って潜って潜って、信じられないところまで潜って、それでやっと見つけた小さな宝物のかけらを持って水面に顔を出した時に初めて起こる【潜って見つけて見せてあげた時の結果論】のことなんだと思う。

 

 

自分には出来ない程深く海に潜った誰かを見て人は声を上げる。

「ええ!お前どこまで潜ったんだよ!すげえな!その石見たことねえや!すげえな!」

それがエンターテインメント。

 

 

自分には出来ない程深く【自分という海】に潜った誰かを見て人は声をあげる。

「ええ!お前どこまで潜ったんだよ!すげえな!その【お前自身】【人間の持つ力】【美学】見たことねえや!すげえな!」

その感動の声という結果論がエンターテインメント。

 

 

世界には「人はこれを喜ぶ」みたいな【レベル】が先人達のデータにより存在してるから中にはそれを模倣するだけで時に同じく人は喜ぶかもしれないけど【人は飽きる】からね笑。真似っこは一つのレベルで成り立ちはしても、結局何が感動になるかってゆーともう【その人である】という絶対的に世界にオンリーワンな自分自身な色でしかないわけで。

 

 

だってミスチルが好き!って言うシンガーの歌なんて私は興味ないし「じゃあミスチル聞くわ」になるもん。私が聞きたいのは「ミスチルに感動して助けられてあんな風になりたいなって歌ってる【俺】」だからさ。ミスチルを通して歌という武器を手にお前は何を歌うの?お前はミスチルを通して何をどう捉えどう紡ぐの?って思うわけです。

 

 

ギターもピアノも声も筆もカメラも建築も言葉も思想も商品もブログもただのツール。ただの武器。その武器で何をするかっていうのは/何を為すかっていうのは結局最後は「私という表現」でありその先に欲しいのは笑顔かあったかさか金か名誉か様々でもそれぞれに求める「豊かさ」だと思うのね。

 

 

この精神的な旅の発端になったのは9/24の復活ライブ翌日に出会った大納言はぴこというバーレスクダンサーさんで、ライブ後あんなに褒められたし/喜んでもらえたのになんだか悶々としていた私に「エンターテインメントは振り切るとアートになる」という視点をもらえたからなんだけど、今思えば何より大納言はぴこというバーレスクダンサー/エンターテイナーがそれより根本にしっかりアーティストだったからだと今は確信をもって言えるかな。

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彼女がどんな海に潜ったのかなんて知らないよ。それは自己対峙というスタートの【自分という海】なのか

バーレスクという海】なのか

ダンスという海】なのか

【表現という海】なのか知る由もない。

ただ

【神は細部に宿る】から。わかるんだな。

潜ったか/乗り越えたか/見つめたか/探したか、それが完了していても現在進行形でも、その潜ったか/乗り越えたか/見つめたか/探したかはその人に自然と纏われる。それはもう薄っぺらい表面的なものでなく闇や影や葛藤さえも光に変えた天女の羽衣のような虹色の衣で、それを纏ってる人はその輝きが細部に宿るの。

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ちなみに「エンターテインメントが振り切るとアートになるならアートが振り切るとエンターテインメントになるはず」という前段階の視点で私がそれに値すると感じたのはEGGOREだった。

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EGGOREというライブアートパフォーマンス集団のエネルギーは「個々である/自分自身でしかない」というアートをしっかりそれぞれに纏ったアーティストの織り成すエンターテインメントでちゃんと彼らはその両方を成立させている。

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アートとエンターテインメント。

他者を喜ばせるためにどの海に潜ろうか。

他者を笑顔にするためにどの海に潜ろうか。

自分を表現するためにどの海に潜ろうか。

自分は何者か探すためにどの海に潜ろうか。

自分という海。

他人はどうしたら喜ぶかな?という海。

自分のツール(音/歌/絵/写真etc)はどう使えるかな?という海。

その他にくっつけられるツールはあるかな?という海。

だけれど全ての海は最後は繋がってる。

それは「私はこう思う」という【私という海】なんだと思う。

そしてその海に怖がらず飛び込み、潜り潜り潜り潜って潜り続けることがアートなんだと思う。

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一人よがりの作品?いいんじゃない?

あなたがご機嫌なら。

他者に寄り添い切った作品?いいんじゃない?

あなたがご機嫌なら。

そう、全ての指標は「私ごきげん!私楽しい!」であり、そう思えることがスタートで、その次に「誰かに伝えたい」なら「誰かに伝えるには?」の海に潜り探し、その海と自分のごきげんの海が繋がるところまで潜り続けて探し続けるしかないのかなって、そんな風に今は思ってる。

 

 

改めて。

私にこんな壮大な旅をさせてくれた大納言はぴこという女性には心からの感謝とリスペクトを送ります。

そして拙い言葉でも「今こんなこと考えてる」と伝えた時優しく「さすがさちよちゃん」と声をかけてくれたEGGOREの鉄秀さんにも感謝を。彼の言葉が鈍かったら私はこの思考の旅を諦めてたと思う。でも尊敬するアーティストである彼が嘘でも「さすが」と声をかけてくれたことで、例えこの感覚がほとんどの人に理解されずとも私はこれを追求し続けて大丈夫だと背中を押してくれたから。ありがとうございます。

 

 

アートとエンターテインメント。

結論は。

エンターテインメントはアートの結果論でしかない。

まず海に潜ることが「アート」になる。

その深度が増すたびあなたはあなたに戻り、あなただけになり、それが世界の捉え方になり、つまりそれはアートになる。

その点において私にとってはアートとは作品作りをする人種だけでなく全ての人にあてはまる言葉でそれは「生き方」だということ。

あなたがあなたで在る。

あなたがあなたでしかない。

他の人より深いところにまで潜れて自分の海への深度が深まるたび、あなたはあなたになり、その行為やそれにより作れるモノ/思想がアートになる。

 

 

ってとこかな。

 

 

わかりにくいところもあったと思います、でも最後まで読んでくれてありがとう。

アートがエンターテインメントになった時

「自分である」が誰かの感動になった時

お金も名声も地位もあたたかさもきっと手に入るんだろうから、まずはやっぱり【自分という海に潜る】ってことかなって思っています。

 

 

そして、いろんな海(自分/表現/他者との繋がり方etc)に潜って、潜りきった先はきっとやっぱり【自分という海】に繋がっているはず。そこへ続く秘密の虹色の洞窟を私も泳ぎ探しながら音と言葉を紡いでいくんでしょう。

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これに気付けたから更に11/10のA.C.E30周年パーティーに持っていける新譜は私というこだわりが/海の深さが増すと思えます。楽しみにしててね。

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次回は。大納言はぴこちゃんやEGGOREと並び、30年という時を経ても尚「大阪テクノ界の大御所」と形容され活動するA.C.Eを通じ「アーティストでいてくれてありがとう/刺激や閃きをくれてありがとう」つまりそれは「今も奏でていてくれてありがとう」を書きますね。

 

 

30年て。すごいよね。30年前何してた?そんな長い間音と一緒にいれるなんて私に出来るかな?昔あるミュージシャンが「俺は音楽と心中する気はない」って言ってバンドを解散させた。それが良い悪いじゃなくその言葉を噛み締めた上では尚更、30年というA.C.Eの時間に恐れ多ささえ感じちゃう。

 

 

30年間音と共にいた彼らを通じ/彼らと在った音を通じあなたの海に道しるべとなる光が差し込むといいな◎そして私自身もそう在りたい、ですね(´ω`)